今回読んだのは「思考の整理学」で有名な外山滋比古さんの本です。
タイトルから一見すると教養を目的とした本かなと思ったのですが、言葉というものが人格と密接に関係しているという観点から書かれたものでした。
あとがきにも書かれておりましたが
「社会で仕事をしている人たちを念頭において、日本語の作法の一部を伝えることを目的としている。
~中略~
こういう心得があれば仕事もうまく行き、人間の評価も高まるのではないかと考え、あえてあれこれ、細かいことを書いた。」(引用:新潮文庫『日本語の作法』p180)
とありましたので、どちらかと「日本語」という手段を通して人間性を磨くことを目指すような印象でした。
先日読んだ遠藤周作さんの「十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨ててくださって宜しい。」では手紙の書き方を通して人を思いやる方法を学びましたが、それに通ずる部分があった気がします。
作品について
この本を読んだ感想として総じていえることは、
現代ではほとんど消えてしまった年賀状や季節のはがきなどの慣例や風習には、どのような効果があったのか?
それらがなくなってしまったことで、私たちは何を失い、何を得ているのか?
そんなことを考えるきっかけになったことです。
学んだこと
やさしさは見えない
第三章「あいさつの難しさ」の「ひとにやさしいことば」より
コロナによる自粛が徐々にゆるまってきて、最近会社の人と飲みに行く機会が一気に増えたのだけど、それによってつくづく感じるのは、やっぱり人が抱える悩みのうちでもっとも感情が動くのは人間関係の悩みだなということです。
もちろん飲み会は「楽しい!」という気持ちは結構大きいのだけれど、同時に少なからずモヤモヤした気持ちを感じる瞬間や、余計なことを言ってしまったかもしれないという反省をすることもしばしばあります。
わたしはコロナ渦に転職したので、この1,2年間はそうゆう悩みと無縁に生きていました。
それは多分、自分という人間をそこまでさらすことなくいれたからなのだな、と気付かされたり。
とはいえ、以前読んだ「大人の友情」という本に書かれていたように、そうゆういろんな感情を感じる人間関係というのは、人と人が深くつながれているという点では幸せなことだとも思います。
しかし、だからといって心任せに思うことを言って人を傷つけて生きる人にはなりたくない。
ということを考えていた今日この頃だったので、響いたのがこの「ひとにやさしいことば」という章でした。
たとえば、ここで紹介されている、
「お痩せになりましたか」
という一言は、一見悪い言葉には聞こえないけど、言われた本人は
「どこか悪いのかな、、」
と不安に感じるかもしれない。
「お疲れのようですね」
はこちらはいたわりの気持ちで発していても、当人は
「疲れてもいないのにそんなことを言われて余計なお世話だ!」
と感じているかもしれない。
そんな風に、言う側に悪気はなくとも人を傷つけることばというものはたくさんある、と書かれています。
しかしこれについては、人間が相手の感情を完全に把握することなど不可能だから、半分あきらめてよいことだとも思います。
大切なのは「自分の言葉が自分の思っている通りに相手に伝わることはない」と理解しておくこと。
この章でもそのような
「話し手と受け手の齟齬」
から生まれてしまった人を傷つける言葉はたくさんあるけど、それ以上にいけないことがあるといっています。
それは「人から聞いた話をそのまま該当者に伝えてしまうこと」です。
これは言われた当人だけでなく発言をした人も裏切る行為であり、多くの人を傷つける行為だ、と。
噂話は話したくなってしまう気持ちをグッと抑え、心にしまっておくのが大人であり、
それができるというだけで、口が堅い人だと信用されて、大事なことを打ち明けられたり、難しいことを託されたりするようになる。
最近は人と話す場では常に自分の考えはちゃんと言葉にできる人になりたいと思いつつも、
「言わない」こともすごく意識するようになった。
だけどやっぱりたまに、「あ、あれは言わない方がよかったかな、、、」と思ってしまう瞬間もたくさんある。
なので、この章を読んで、人が別の場で言っていた発言は問答無用で「言わない」を選ぶ。
と、自分への戒めにしようと感じました。
本当のやさしさとは、見えないところにある。
人生におけるユーモアの大切さ
第四章「変わりゆく日本語」の「ユーモアのセンス」より
最近自分の中ですごく響いているのが、前回お話しした遠藤周作さんの「ユーモアは人と結びつこうとする愛の現れである」という言葉。
この言葉がすごく大好きで、ユーモアってじつはものすごく人生に与える影響が大きいスキルなのではないかと感じるようになった。
この章でもユーモアの大切さについて触れられてる。
ここでの例では、イギリスの元首相ウィンストン・チャーチルに、
ある人が「ロクに絵をかいたこともないような人が名士だからといって美術展の審査員になっているのは、おかしくありませんか」と言った際、
チャーチルは「別に悪くないでしょう。私はタマゴを生んだことはありませんが、タマゴが腐っているかどうかはわかりますもの」と言った、と。
自分の考えを論破という形で伝えることも一つの手段かもしれない。
だけど、ユーモアであれば、言われた側は少なからずイラっとすることはあるかもしれないが、
同時に思わず「座布団一枚!」とクスっとしてしまうところもあるのではないか。
とっさの場面においてユーモアで切り返せる発想力というのは、
「明日からやってみよう!」とすぐに体得できるものではない。
だけどそれだけに、できる人は強い。
そしてそれは、言われる人も、周りの人も、なるべく傷つけずに自分の考えを述べる手段として、
愛の現れなのだな、と、遠藤周作さんの言葉が腑に落ちたように感じました。
ユーモアは、愛ですね。